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ミロク的情報 日月神示
日月神示は神典研究家で画家でもあった岡本天明氏、1897年(明治30年)12月4日-1963年(昭和38年)4月7日に国常立尊と呼ばれている高級神霊より降ろされたとされる神示、神典です。原文はほとんどが漢数字、かな文字、記号の混じった文体で構成され抽象的な絵のみで書記されている帖も有ります。
その難解さから当初は天明自身もほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家の協力などで少しづつ解読が進み天明亡き後も妻である岡本三典の努力により、今では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われています。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれている箇所もあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的で、その為に仮訳と言う副題を添えての発表も有りました。
なお、日月神示の構成は本巻38巻と補巻1巻の計39巻から成ります。別名「ひふみ神示」または、「一二三神示」とも呼ばれます。また、上記以外にも発表を禁じられている「巻」が13巻有り、天明は「これら未発表のものは、或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります。」と昭和36年に語っています。
日月神示はその登場以来、一部関係者を除きほとんど知られていませんでしたが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一氏の著作等により広く一般にも知られるようになって来たと言われています。
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日月神示の降ろされた時代背景
第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史の事を聞く目的もあって東京の原宿でフーチ実験が行われました。フーチとは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、一種の自動書記現象ですが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一等でした。
その場において審神者(サ二ワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明氏であったが、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明氏に書記させていく国常立尊で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。ただこのときは「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。このフーチ実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明氏のもとを訪れ、当時の総理大臣であった近衛文麿に関して、近衛は弱腰で役に立たないので御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わないという殺気だった雰囲気に包まれたが天明氏の賢断によって無事に回避されたといいます。
その判断とは軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられないと天明氏が言った事に対して、軍関係者がそれに従うという内容の約束であった。神霊の回答は「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかった筈だが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたようです。神示には日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中には終戦時に自殺を思いとどまった者も多く居たといいます。
日月神示が遂に降ろされる
前述のフーチ実験の約2ヶ月後の6月10日に天明氏は知人の誘いで千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)を訪れますが、そこに実験の時に現れた天之日月神を祀る延喜式内社で麻賀多神社の末社である天之日津久神社がありました。
神典研究家であった天明氏でも天之日月神がいかなる神なのか、また、どこに鎮座している神なのかがフーチ実験後もしばらくは分らなかったと後に述懐しています。
天明氏によると天之日津久神社を参拝し厚く御礼を申し上げ、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こったといいます。画家でもあった天明氏は画仙紙や矢立を常に持ち歩く習慣がありこの時も例外では無かったが、急に右手に激痛を感じ矢立と紙を取り出したところ自分の意思に反して猛烈な勢いで筆が走り意味不明の殴り書きをしたそうです。
これが後に日月神示と呼ばれる神示、神典でこの日が発現の重要な日となりました。なお、この時に書記されたものが日月神示の第一巻である「上つ巻」の第一帖及び第二帖でした。
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