来るものは味わう
この世に魂が生まれ出る目的は、いろいろな「経験をする事自体」にあります。
物事の成功や失敗、この世的な幸福や不幸と言う「途中の状態」には、本当の自分の魂(不死の存在)が求めている物は無いのです。だから、必ず物事に飽きますし、なんとなく不安感は消えないのです。
この世だけで消える途中の物に、執着しては生けません。
だから成功している幸福な人でも、その「経験をさせて頂いている」と言う視点が無ければ、本当の成功者では無いのです。その視点が無ければ、執着するものが多い気の毒な魂と成ります。死後に苦しみます。
今が苦しくて他人から不幸に見える人でも、その経験を静観して楽しむことが出来れば、魂の面では成功している人だと言えます。
もっと言えば、見えない物事にも感謝が出来る事が、もっとも尊い生き方です。この世とあの世を通して幸福な魂です。
日本では昔から「お陰さまで」と感謝を述べますが、これは真理です。
自分が知覚・認識できる物事のみに反応するのは、それはロボットであり、動物の霊性しか無いのです。
良いことが有れば、自分が知らない気付かない人々の働きの上でのことだと「思いやれる気持ち」が大切です。これを突き詰めますと、そもそも自分が生きて、いろいろな経験が出来ること自体が、見えない存在=神からのプレゼントだと分かります。
悩む人々を観ていますと、この大切な「経験」をすること自体を避けよう、上手く逃げようとする方が多いのです。
魂が生まれて来る目的が、神示が示す「経験をするため」で本当にあるならば、これは恐ろしいことです。
経験を嫌がるならば、この世に存在する理由が薄れる方向に流れるからです。
だから、自分は不幸だ、運が弱い、と思う人は、今のその現状で経験する事を嫌がらない事です。
自分が注意をしても起こる事には「仕方がない」と覚悟をしましょう。
そして、それを静観するのです。
もし出来れば、嫌な人物や物事に対して「良い経験をさせてくれるヤンケ〜」と、嫌味でも良いから感謝想起(生かして頂いて ありがとう御座位ます)をしましょう。必ず物事は流れ変わって行きます。
今の現状を感謝の気持ちで味わう「覚悟」を決めた時から、その人に改善と幸運が訪れ始めます。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
旅行記3 草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)

ウナギ屋さんを後にして、熱田神宮の正門へと向かいました。
鳥居をくぐる人々の大半が、鳥居の下で本殿に向かって一礼をされていました。帰る人は、振り返り丁寧な礼をされています。これは伊勢神宮でも見られないほどの確率で、大半の方が普通にお辞儀をされていました。
この様子を見ていた家族が、「みんな読者なの?」と思わず言っていました、笑。
「そんなことは無い〜」と私は言いながら、内心は驚いていました。おそらく地元の方は、昔から自然とされて来たんだなと思い、熱田神宮が大切にされて来た一面を見た思いでした。
新しくスッキリとした本殿を参拝した後、引かれるようにして本殿の右方向にある式場へと歩いて行きました。
現代建築家が設計した建物は、近代と古代が融合した斬新なものでした。大量に使用されているカナダのクサマキの木は、とても肉厚の大きな材木が多用されています。
そして式場の裏手へと誘導されるように行きましたら、小さな新しい社殿が在りました。私は、その高床式に成った社殿下から、非常に強い神気を感じました。社殿の下に眼が釘付けに成るほど強く引き付けられました。
そこから小道を下に降りますと、その社殿の説明書きが在り、明治時代まで草薙神剣が安置されていた土用殿と書かれていました。
そういう事かと理解した私は、再び土用殿に戻りました。つまり草薙神剣が長年に渡り安置されていた場所に、一番間近に接することが出来るからです。神気の霊的磁気の痕跡は、必ず場所に残留しているものです。
私の霊眼は、土用殿の基礎下の大地からの磁気に感応し始めました。
そこで感じた物は、草薙神剣の概容でした。
ここで、過去記事(http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20071123)の「神話ヤマタノオロチ」を再読してください。
異民族が所有していた鉄剣=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)です。
これは戦闘用の両面刃の鉄剣だと感じます。これは異民族を撃退した時に、複数の鉄剣を取り上げています。つまり、天叢雲剣とされるものは少なくとも8本以上は初期に存在したと感じます。
しかし現代には、天叢雲剣は1本も存在していないと思います。その成分が鉄だったことも関係します。
なんと、神話の天叢雲剣=草薙神剣、ではありません。完全な別物です。
では、草薙神剣とは何か?
異民族が日本で搾取して集めた金(ゴールド)を使用して、宝剣を作ろうとしていた製造途中の物だと感じます。
タタラを焼いて金の剣を精錬していた最中に、スサノオの人格神=人間が急襲しています。だから、製錬途中の非常に異型な形状の物を取り上げています。
つまり、金だったので大切に保管をされたのだと思います。
ただ、この金の純度が悪く、水銀の添加もされていたので、草薙神剣は白金(プラチナ)に近い感じに霊視では観えます。
古文書によりますと、草薙神剣は外側から木箱ー石の箱ーくすの木の箱、と三重の箱の中に安置されており、その箱の間には赤土が詰められているそうです。
この赤土は、水銀の元である朱砂(しゅしゃ:水銀を含んだ赤い砂)だと感じます。金の精錬の時に使用した水銀の砂だと思います。また、防火対策の意味もあったのでしょう。
草薙神剣は金ですから、現物はやはり光って見えると思います。
結局、草薙神剣は剣ではなく、金製品だったがゆえに大切な神事の道具としての「寄り代」に使用されたのが、その正体だと感じます。
白山から今の奈良へと邪馬台国が移された後、代々の卑弥呼(ヒミコ:日見子)により、神事の寄り代として草薙神剣に神気の磁気が蓄積されていきました。
古代後期の最も優秀なヒミコであった倭姫命(ヤマトヒメ)により、伊勢神宮へと草薙神剣は運ばれています。
では問題は、現代のどこに草薙神剣はあるのか?
私は、土用殿に明治まで在ったと言うのが大きなヒントだと思います。
つまり、明治天皇が三種の神器に干渉しないはずが無いと思います。
日本の明治以降の大躍進。そして世界大戦に破れても、世界を代表する経済力を有するまでの奇跡の復活が成せたのは。。。ある意味では神がかっています。
つまり、古来からバラバラに安置されていた三種の神器を、明治天皇は移動させていると感じます。それが神威を発動させて、国を盛り上げたと感じます。
問題は、どこで三種の神器を面会(正確には今は2つが同じ場所)させたのか?
三種の神器が、3個ともに同じ場所で安置された時、新たな国力が発動すると感じます。
時期が来れば、書きましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
旅行記2 草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)

伊勢神宮の参拝を終え、名古屋の熱田神宮へと向かいました。伊勢からは、すべて高速道路の乗り継ぎで気持ちよく行けました。
カーナビが熱田神宮の近くの交差点に差し掛かった時、家内が右手指先に電気が走る感じがすると言い出しました。これは神気が強い神社では起こる現象です。
神社の神気が、参拝者を誘導する為に霊線を結びに来られたときに発生する現象です。この現象が起こるときは、迷わずに神社に行けるものです。
私には、高速道路を降りた時点で既に、熱田神宮の神気が背中に来ていました。
神気に感応する初期段階のレベルの人は、指先や足先に電気が走る感じがします。カンナガラに成りますと、全身で電気を感じるものです。
ただ、数十年間の精進を経ても、指先の神気を感じることが出来る人さえも非常に少ないのです。感謝の先祖供養と神祭りをするだけの主婦が、神気の指先感応をするとは、時代の変化を再認させられました。
そしてたどり着いたのが、正門前の駐車場でした。時間は午後一時を過ぎていました。家族がこの近くに、有名なウナギ屋さんが在るはずだから食べたいと言いました。雑誌情報では、いつも満席だそうだから無理かなと言いながら歩き出しました。すると店は、神社の正門前のすぐの所に在りました。
店内にはたくさんの先客がおられましが、たまたま家族分の席がカウンターに空いていました。そして名物の「ひつまぶし」を全員が注文しました。
伊勢神宮の伊雑宮の目の前にもウナギ屋が在り、熱田神宮の目前にもウナギ屋が在ります。注文を待つ間に、この偶然をしばらく考えていました。
ウナギとは、朝日を拝む霊的な生き物だと感じます。特定の限られた海域での、ウナギの稚魚の受精と発生には、今でも科学的な謎が多いようです。
ウナギの稚魚は、男性の精子に形が似ている感じがしますので、ウナギの稚魚の量と、男性の無精子症には相関関係が有るかも知れないと思いました。要は地球上での生物同士の霊的な転写が在り、すべては繋がっている感じがしたのです。
こうして空想する間に、ひつまぶしが来ました。
ひつまぶしが来たのは良いのですが、家族の誰も食べ方を知らなかったのです。
隣席で一人で食事をされていた、品の良いご婦人の食べ方を横目で見ながら食べ始めました。
最初は、おひつに入ったウナギとご飯を茶碗に盛り、それだけで食べます。そして2杯目からは、うなぎ御飯を盛った茶碗に上からダシ汁を掛けて食べました。
大量の汗をかいた後でしたので食欲は落ち気味でしたが、ダシ汁のお陰で茶漬けの様にスルスルとウナギ御飯が腹に入りました。
そして再度、御飯を盛ろうとシャモジを手にした時、ある感応が来ました。
それは、伝説の三種の神器の刀である草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)についての啓示でした。
しゃもじが、変わった形の神剣に幻視しました。
剣の先端が波打つ花びらの様に広がり、それに続くサオは60cmほどの長さであり、サオの中間が膨らんでいました。
古文献では草薙の剣の形象は、菖蒲(しょうぶ)の「葉」に似ている記述がありますが、これは菖蒲の「花びら」の間違いだと私は感じます。
この形象を霊視した時、脳内でリンクする情報がありました。
それは、大本教の出口オニ(ワニ)サブロウが描いた、国常立尊(くにとこたちのみこと)の人格神(じんかくしん:人間の姿の神)の絵です。
この絵は、京都の出雲大神宮に出口オニサブロウが宿泊していた満月の夜に、国常立尊が拝殿奥の御神体山に示現した時の姿を模写していると感じます。
その絵にある人格神の手には、非常に変わった刀が描かれています。まさに先端が広がった刀です。
では、草薙神剣の正体とは何か?。。。。 (続く)
生かして頂いて ありがとう御座位ます
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生まれた時点で祝福
よく掃除された神社の参道を歩く事は、とても霊的な浄化の過程であり、すでに最高の御祓であり、とてもスピリチュアルな事なのです。
良い神社ほど参道は長いものです。ただ、ムダに歩かせている訳では無いです。
参道の正中(せいちゅう:道の真ん中)を「意識して」歩くことは、無言の教えに満ちています。釈迦が達した悟りの精神である中道(ちゅうどう:すべてに偏らず、執着しないこと)と同じ意味が在ります。
真ん中を見ながら人生を歩いて行くのが、その人にとって結局は最善であり、幸福への最短となります。
真ん中ではおもしろくないと、極端を目指すのも良いですが、それは継続はしないのです。
(参道は正中を意識しながら、参道の片側の幅の中を歩きます。正中の真上は歩きません)
参道の行きと帰りで、1つの人生を霊的に表しています。
しゃべりながらも行くのも人生。真剣に歩くのも人生です。
ただ、神気の在る参道では、自然になんとなく無言で歩いているものです。
参道(産道)を通過すれば、参拝の意義の半分以上は既に終了しています。最後のシメは、本殿で手を合わせて感謝をする。
つまり産道を通過して、この世に自分が生まれたことに感謝をします。
これが、その人の運気を正常にククリ直し、運気を高める最善で最高な方法です。
自分が生まれた奇跡を、恨み、ヒガミ、当然としていては運気が上がりません。
ましてや、あれを欲しい、これを叶えて欲しいと、命を産み出す存在に言うのは、間が抜けていてダメなのです。普段の自分の感情も同様です。
今があることにまず感謝をすることがないと、今と未来の間が抜けているからダメです。
間=空白を創れば、その上には何も積み上がらないのです。
「生かして頂いて ありがとう御座います」と原点(神)に対して感謝を捧げれば、いくらでもその上に積み上がって行くものなのです。
現状が苦しく悩む人は多いです。
でも、その苦しみも期間限定であり、必ず終わる時が来ます。
人間は生まれた時点で、切れなかった先祖の流れの結晶体が生まれたのです。その切れなかった遺伝子の流れの先には、神様が存在します。
もう既に、生まれただけで神様と一体なのです。
では、今に体験している色々な思いは何か?
新たな始まりを自分が創造しているのです。どんなに苦しくてミジメでも、自分が生かされている原点(内在神)への「感謝」と「思いやり」を忘れなければ、絶対に大丈夫です。
お任せ(=カンナガラ)の心境(しんきょう:神の鏡)が発露して来ます。
必ず真の幸福(心の安心)を垣間見ることでしょう。
静かに微笑みながら、人生を静観して、何事にも感謝をして生きれば絶対に大丈夫です。神様と先祖霊からの「一押し」の応援が起こります。
なぜなら、「生きる間は」いつも内在神と繋がっているからです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
旅行記1 御垣内参拝(みかきうちさんぱい)

伊勢神宮の御正殿(ごしょうでん)を幾重にも囲む玉垣(たまがき)の中でも、神官により案内されて内側の玉垣の中で参拝をする事を御垣内参拝(みかきうちさんぱい)と言います。
今回は、写真集「太陽と大自然の神々の地、伊勢」の御礼を兼ねて、「読者を代表して」正式参拝をさせて頂きました。
今回は旅行に行く前から、内宮での「国家繁栄」の大々神楽(だいだいかぐら)の奉納と、内宮の御垣内において「国家安泰」と「天皇陛下の長寿」への思いを奉納するつもりで行きました。
今回は読者の御陰により、豪華な大々神楽と、いつもよりも御垣内の奥での正式参拝が出来ました。私が知った情報は、読者の為に公開をすることで、その御礼とさせて頂きたいと思います。
正式参拝をさせて頂いて、伊勢の神様は生きておられると言う事を体感しました。
不思議な奇異は一切無かったのですが、一つだけ言いますと、内宮御正殿の中重鳥居(なかのえのとりい)の真下あたりで、とても強い潮風(しおかぜ)に全身を包まれました。
まさに前方の正殿(しょうでん)が海であり、そこから海の香りがする風が吹いて来る感じでした。隣にいた家族には、分からなかったようです。
伊勢神宮は明治時代まで、個人からの寄付や祈願を正式には受け付けていませんでした。その代わりに個人の願い事を厳禁にして、国家の安泰と繁栄だけを奉納する場所としていたのです。ただ、運営費は国からの税金でした。
この二千年近く続く仕組みを変更させたのが、明治天皇でした。
明治天皇が伊勢神宮を個人にも開放させて、個人からの寄付や祈願を受け付け始めました。この変更の御陰で現代の伊勢神宮は、税金に頼らずに寄付で運営されています。
これから首相が変わっていけば、財政難の名前の下に、無慈悲な緊縮財政が始まる可能性があります。
もし明治天皇により、個人寄付の導入がされていなければ、税金に依存する伊勢神宮では存続出来なかったかも知れません。
まさに100年間を掛けて、「神宮が存続できる体制」を明治天皇が予見して改革していたのです。
ただ、遷宮(せんぐう:20年間ごとの建て替え)の余った寄付金を、神宮から「逆に」国へ寄付する仕組みや、信仰への課税を新政権は始めるかも知れません。
ただ、今回の内宮参拝では、ほんの数十年しか生きられない人間には、ビクともさせる事が出来ない磐石な神の息吹が存在することに安心しました。
生かして頂いて ありがとう御座います
人類の 5% 運動を広めたいです。
帰宅報告 3

さきほど無地に帰宅しました。
今回の旅行は、「神剣」(しんけん)がテーマだったようです。
大阪の神剣神社(みつるぎじんじゃ)に始まり。
伊勢では、伊雑宮に参拝したとき、神社前に在る小泉さんという剣の聖人の剣道場において、少年剣道大会が開催されておりました。普段は立ち入り厳禁な聖域も、この日は開放されていました。
伊雑宮には30年間近く参拝していますが、こんな日に巡りあわせたのは今回が始めてです。私も父兄に混じって、道場を見学することが出来ました。とても興味深い物を見せて頂きました。剣聖人からの導きと、剣つながりを感じました。
そして、今回の旅行前に神示が有った、熱田神宮への参拝が旅の最後でした。なんと生まれて初めての参拝でした。今までは、行く気がしなかったのです。しかし、今回の参拝では感動しました。今の時期に行くべきだったようです。
参拝前に神社正門前で、名古屋の名物「ひつまぶし」を頂いたとき、伝説の三種の神器の神剣の形を完全に理解しました。
伝説の神剣が明治まで保管されていた社も、最近に再建されており、その場でも啓示を受けました。
今回の旅行紀は時系列ではなく、テーマごとに思い付いた時に、ランダムに記事に公開したいと思います。
写真は、伊勢神宮の内宮の神馬です。(普段はめったに居ません)
とても優しい目で見つめてくれました、笑。
ではでは、記事を楽しみにしていてください〜。
今日もほんとに 生かして頂いて ありがとう御座います
人類の 5% 運動を広めたいです。
途中報告 2

昨日とても感動したのは、神宮神田(じんぐうしんでん)を見られたことでした。伊勢神宮で使用されるお米を、神宮が直接に自ら作っている田んぼです。
ここは、公式には公開されておらず、交通量の多い県道から注意して見るしかありません。車を停車させる場所も道路脇の数台分しか無いので、皆さんは写真で我慢してください。
京都から天照太御神を背負って来た皇女のヤマトヒメは、五十鈴川の近くに在るこの場所で、太陽神に捧げるお米を作る場所として、ここに田んぼを定めました。
そして近年の、なんと平成元年に、奇跡のお米「イセヒカリ」が突然変異でこの田んぼで誕生しています。まるで、新しい天皇陛下を祝福するかのようにです。
最新のバイオ技術を駆使しても、新種の稲などは出来るものでは無いです。いまだに全国では、コシヒカリが主流です。
ただ、田んぼ見て意外だったのは、田んぼのあぜ道がアスファルトで綺れいに整備されていたことです。そこに最新の農機具も導入されているようでした。
神田(しんでん=神殿)に、石油で道をふさぐのは違和感が大でした。まあこれも、責任者が変われば時代と共に変化していくでしょう。
そして今日から、伊勢神宮と白山の写真集でも未公開な写真ばかりを集めた、安価な写真集の予約受付が始まりました。
伊勢神宮から白山へ、その聖なる軌跡 (http://xurl.jp/jy5c)
参拝に行かれない人々や、この2つの聖地の神意を広めるために、宜しくお願い致します。
人類の 5% 運動を広めたいです。
途中報告 1

昨日は、大阪の河内(かわち)と呼ばれた地域において、楠木正成(くすのきまさしげ)が天啓を受け、神剣を納めた神社があると神示を受けて参拝しました。
旧家が集合した街の中に在る小さな神社でした。神社の名前は、その名もズバリと神剣神社(みつるぎじんじゃ)と呼ばれていました。
神社の正式な由緒は知りませんが、今回はどうしても神剣神社へ参拝したいと浮かんでいました。
別件で会った大阪の親友に「神剣神社って知ってる?」と聞きましたら、親友の家の近所に在ると言うことで、案内をしてもらいました。2mほどの道幅が多い、旧家が並ぶ町中に在ります。
その狭い境内の中に、なんと「伊勢」と刻まれた祭事石が在りました。
神剣と伊勢が、ここでリンクしていました。
神社の本殿の中には、両側に弓矢を引きにかかる武神が2体も安置されていました。
政治的にも色々な意味で、国家安泰を伊勢神宮に「奉納」するべき時期が来ていると感じた一日でした。
人類の 5% 運動を広めたいです。
神に何を見せるのか?
今朝は、釈尊(しゃくそん)のことを思い出していました。釈尊は、神については語らなかった。それが誤解されて、神などいないと釈尊が言っているかのような解釈もあります。
釈尊の本意は、ぜんぜん違うのです。
そもそも、人間も動物も=神の一面、であるから、「神」と分けて認識する必要が無いと言う意味でした。
わかり易く言えば、自分の体の一部(指や足や手など)だけを、自分から分離した別存在のように語るのは可笑しいと言うことだったのです。
病気で寝ている人は、神が病気を体験しています。
仕事で悩んでいる人は、神もそれを体験しています。
隣人と争う人は、神にも争いを体験させています。
なんとまあ私たちという神様は、心にいる創造神に好き勝手な色々な体験をさせているのです。
逆に言えば、どんな悪い人物でも「生きている限り」は、その人に神様が宿っています。そして、心の神様に悪行を見せて体験させてしまっているのです。
でも、さすがに心の神様(創造神=内在神)が肉体に宿るには法則が在り、「愛情」と「思いやり」の2つが無い体験は、どんどん心の奥に内在神が「隠れる」ことに成るのです。
心の神様が奥に隠れますと、肉体の健康が消えていき、寿命が縮まるのです。幸運も消えていきます。
人の寿命は決まっておらず、心の神様の維持しだいで変化するものです。
だから、健康と幸運を望む人は、自分の心の神様に「愛情」と「思いやり」を他者に配る体験をさせてあげることです。
この体験を内在神にさせてあげる人ほど、この消え去る物質の次元では、いろいろと心が楽しめる恩恵が来ます。
心が楽しい事が、最高のゼイタクです。
どんなに裕福でも、心が楽しめない不幸な人が多いです。
逆に言えば、今、心が辛い人でも大丈夫です。
自分の生活の中で、自分が出来る「愛情」と「思いやり」を配る意識を持てば良いのです。
これが因縁(いんねん)と成り、必ず自分に反映して来ます。
ただ、あきらめるのでは無く、今から良い因縁を置いて行きましょう。
釈尊は、宇宙は縁起(えんぎ)が反映して、必ず循環して流れて行くと言いました。
今までの人は、この解釈を間違って、過去からの反射ばかりを心配して無駄な信仰行事ばかりに金銭を費やして来ました。
済んだ過去からの反射では無く、今から良い因縁を創る視点を持ちましょう。
過去からの反射は、今する行為に比べれば、まったく大したことではありません。
今の行為に「愛情」と「思いやり」が少なければ、弱い過去の反射が大きく作用する錯覚が起こるだけです。
がんばって、今から創造して生きましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
私たちが神だった
亡くなった故人は、バルドォ(http://xurl.jp/kk5c)期間に、その心境で固定されます。
そして、その心境と同じ魂が集まる次元へと引かれて行きます。あの世は、完全に似たもの同士の魂が集まる世界です。国境も人種も性別も関係ありません。だから、これは差別では無いのです。
似たもの同士だけが集まる世界とは、好きですか?
もし、この世の次元で似たもの同士だけが住む規則で、町が存在すれば興味深いですよ。
掃除が嫌いな人だけが集められて住む町は、いかがですか?どんな町に成っているでしょうか。
殺人者だけが住む町。他人をイジメ、陰口を叩く人だけが住む町。・・・
また一方では、掃除好きな人だけが住む町。他人を助けることに喜びを感じる人だけが住む町。
瞑想ばかりして働かない人だけが集められた町。SEXばかりしたがる人が集まる町。。。
それぞれの町を第三者が傍観した場合、その町をなんて呼ぶでしょうか?
ゴミの町、地獄のような町、天国、色情の町、・・・いろいろと名付けて呼ぶことでしょう。
これがあの世では、引力のような法則が働いていて、それぞれの魂が持つ磁気に応じて、厳格に自ら進んで行きます。自分と同種な磁気に引かれるのが、一番気持ちが良いからです。
だから安心すれば良いです。
誰も裁かないし、強制もありません。ただ、自分の心境と同じ魂が集まる世界へと行くだけです。
だから、嫌な自分の面があれば、生きている間に「気付いて」改善できれば良いですね。ただ、気付くためには、他人が必要なのです。他人との接触、つまり他人の内在神の「鏡」に自分を映すことにより、本当の自分が見えるのです。
あの世の次元は、大きく11段階の次元に分かれ、それぞれの次元には世界が無数に存在します。
次元の崩壊が幽界(4次元)から進んでおり、最終的には今の現実界に全ての次元が転写して来ます。その時、死んでも魂が行く次元が、今のこの次元しか無いので、その時、人間は不死に成っています。
また次元の崩壊に並行して、この世では科学的な新発見が色々な分野で起こります。それは、昭和の時代の次元では、絶対に不可能だったのです。その真相は、次元の変化が陰で起こったと言うことです。
問題は、全ての次元が今の世に転写して来るのが何時なのか?
これは、未来は白紙なので神も分かりません。私も楽しみです。
ただ言える事は、地獄の次元で苦しんでいる縁者が居れば、それを救い出せるのは、霊線で繋がる生きる人間なのです。
だから地獄の心境に居る魂にとっては、感謝の供養の光の糸をもたらす子孫は、神様に観えるのです。供養するあなたが、神様や観音様のように、あちらの次元では実際に出現しています。
逆に言えば、この次元で生きる私たちにとっても、私たちを何とか救おうとする別次元の縁ある霊的存在(神縁)が居るのです。それらの高貴なる存在も次元をまたぐために、私たちと同様に手探りで神界において、私たちが行う供養的な祈りの模索をされています。それほど次元の境界は、巨大で絶対的な断絶が在ります。
この世だけが、すべての次元と通じており、すべての段階の魂が共存する稀有なる場所です。他の次元では、区別が厳格です。
いかがですか?今の有り難さが少し分かりましたかね。
だから、今の間に感謝しながら思いっ切り生きましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
焦らないことが大切
人間は弱いものです。何かを無くす事を本能で恐れるからです。
何かを持てば、それを無くす事を恐れ悩みます。
何かを持たなければ、それが無い事に悩みます。
持っても悩み、持たなくても悩むのです。
国家の戦争も、資源や国土を「失う恐怖」から起きるのでしょう。
近代の地球上では、失う恐怖の「幻想」で物事が進んで来たようです。物事を拡大する事で安心する「幻想に」社会も個人もハマっています。
会社を大きくする幻想、何でもたくさん持つ幻想に成っています。
しかし、これには限界が来るのです。1つしかない地球上では、必ず無理が来るのです。また、持つがゆえに発生する悩みが尽きません。
では、どうすれば良いのか?
老子(ろうし:古代中国での道教の開祖。私の感応では高い精神性を有する神人です)が面白いことを言っています。
「足るを知る者は富む」です。つまり、現状への感謝が出来る人は、逆に裕福に成る。と言う意味です。
これは真理です。現状に感謝する視点は、何事にも漏れを起こさないのです。
会社でも目標や成長ばかりに視点が行きますと、現状に抱える問題が隠れてしまう事があります。その結果、足下がすくわれて、計画通りには行かないものです。急な拡大は、倒産リスクも逆に増します。
現状に感謝して大切にする日々の蓄積は、必ず着実な基盤固めと成長を呼ぶのです。
「急がば回れ」と言うように、夢に描く幸福を願い悩むよりも、今の現状に感謝をして行くのが、着実に幸福に至る近道なのです。
私たちの心だけは、永遠に旅をする不滅の存在です。死にたくても、絶対に死ねないのです。
だから焦らないで、現状をながめて生きましょう。出来れば、現状の有り難い物事にも気付いて、感謝が出来れば最高です。
「心」以外は、変化して消えていく物事ばかりです。大きな長〜〜い視点で見れば、どんな困難も後で必ず笑い話の思い出に変わります。
現状の中で、思いっ切り生きましょう。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
心の神様が最高神です
人間が、なぜ生まれてくるのか、なんのために生きるのか?
古来から問われ続けられているテーマですが、答えは突き詰めると1つです。
自分の心に居る、元の元の神様に気付くためです。
この人間の心に宿る神様(内在神)とは、途方もないほど究極に高次元な存在です。この地球上で祭られる神仏の中では、最高神です。
地球上での最高神は、自然界からの結晶とも言える「生きる」人間に「宿る」のです。
すべての生物に神が宿りますが、最高次元の神霊は人間に宿ります。
自由に動き回り、喜び楽しみ悩み、物事を創造(想像)したり、罪さえも犯せる自由とは、これは非常に高次なことなのです。でも、これはアタリマエだとして、誰も満足も認識もしていません。
私たちは、自分の心に神様が居る事に気付けるまで、生まれ変わりを繰り返し、喜怒哀楽を繰り返して来ました。
この数千年の間に、自分の心の神様に深く気付けた人間は、この地球上での転生(生まれ変わり)のサイクルを卒業して外れています。そして違う次元で、愛情を強化する魂の旅へと進んでいます。
この地球と言う次元は、神界から地獄界までの様相が同時に共存するという特異点(とくいてん:ごく稀な状態)なのです。
キレイ事も在れば、異常に汚い物事、殺人・暴行も行われている現実が在ります。
この環境の中でも回りの刺激に惑(まど)わされずに、自分の心に居る母性の内在神へと自分の気持ちを向ける事が大切であり、人が生まれてくる目的です。
だから、生きていれば悩みや不満は在るでしょう。でも、その中でも自分の心の母性の神を見詰めるのです。折れそうな心の中でも見詰めるからこそ、より真剣に向きあうことが出来るのです。
生きてさえいれば、どんな悩みも苦しみも必ず「変化」して行くのが、この現実界での利点です。他の次元では、変化が無い苦しみが在るのです。
でも、心の神様を見詰めるのは、どうすれば良いのか?
それは、喜怒哀楽を体験できるというのは、生きていればこその事です。生まれる前は全員が、この刺激を思いっ切り前向きに体験したくて、この世に喜々として来たのです。これを忘れているだけです。
だから何があっても、生かして頂いて ありがとう御座います、と自分の心の神様に感謝をしながら物事を見詰めれば大丈夫です。他人に対しても、その人の心の神様に向かって、生かして頂いて ありがとう御座います、と思いながら面することです。
この様な、自他の内在神を意識して生活する人間が増えた時、そこには神界の転写が起こります。
外在する存在に神を無理に金銭で見させようとする宗教が、崩壊している時でもあります。全員が自分の心の神様を信仰し始めますと、組織を作って縛る教えの間違いと、その背後の魔性が良く見えます。
もう「既に」自分の心に居る最高神に、はやく気付きましょう。
気付くためには、日々この言葉と共に生活をすることです。それは、
生かして頂いて ありがとう御座位ます
人類の 5% 運動を広めたいです。
知らなかったでは済みません
8月18日ごろから白山山頂より一人で下山していた東京の男性が、行方不明となっていましたが、昨日無事に発見されました。
登山道から150mほど斜面を滑落した場所で見つかったようです。衰弱されているようで、後二日ほど発見が遅れていれば、危険だったと思います。東京の人だと聞いていましたので、とても気に掛けていました。
白山神に対して男性の加護を思っていましたが、なかなか良い反応は降りては来ていませんでした。
やはり神山では、人間の何気ない行為(小便、ツバ吐きなど)が、場所により精霊の聖域を汚すことに成り、逆鱗に触れることがありますので注意が必要です。
朝方に捜索していたヘリコプターが、男性が所持していた懐中電灯に気付くという非常に奇跡的な発見でした。
あの三県にまたがる広大な白山で、たった1台しかないヘリが、草の中の小さな明かりに上空から気付くとは、幸運だったとしか言えません。
白山は標高から誤解されて、近年は軽装で登山する人々がいるそうです。しかし、これは大きな間違いであり、雨具も含めたフル装備が必要な山です。登山道の距離は非常に長いですし、せまく滑落しやすい箇所があります。上からの落石も普通にありますので、軽いヘルメットなども必要です。また、熊が多い山でもあります。
白山に人間が登り始めたのは、泰澄大師(たいちょうだいし)が白山で修行を始めた、ほんの1300年ほど前からの新しいことなのです。それまでは、地元でも神の山とされて畏(おそ)れ多く、登山の風習すら無かったのです。
それが近年のパワースポット流行や、伊勢白山道の影響?で登山者が急増しています。
私がネットに現れた初期に明記していますが、私は白山を遠方から遥拝(ようはい)する事を好んでいます。もしかすると、もう白山登山を生涯しないか、あと1度ぐらいだと思います。
近年はTVや雑誌の影響で、全国の聖域や御神体の山に立ち入る人が増えています。
聖域=運気が上がる、では決して無いことを警告しておきます。
逆に、運気どころか寿命を縮める可能性が高いのです。
昭和の怖いもの知らずの行者で知られていた、金井南龍という宗教家がいました。彼は多くの有料先生を呪詛で倒し、聖域に立ち入る行為をするので、その筋では有名でした。
彼は京都の元伊勢(もといせ:伊勢神宮の原型)とされる、鬼伝説で有名な大江山に在る、三角形の禁足の神山とされる日室嶽(ひむろたけ)に入りました。
この御神体の三角山の中でも、古来から絶対禁足の斜面が在ります。そこに入った者は、年内に必ず死ぬとされる斜面です。彼は、あえてその斜面から登頂して下山するという往復をしました。その年内には死にませんでしたが、数年後に急に命が尽きるようにして亡くなっています。
そこは鬼神の聖域でした。
やはり大自然の中には、人間を受け付けない精霊の世界が存在するのです。ただ普通の人には、それが何処なのか?が分かりません。
だから、昔から禁足地とされる場所には、素直に入らないことです。
近年では神社側が集金のために、わざわざ禁足地を有料解放している所があります。しかし、これは宮司の無知ゆえの罪です。多くの人間が生命力を失う可能性が高いです。宮司も死んでから、精霊の裁きを受けるでしょう。
みなさんも、公的に認められている進入=精霊が許可している、では絶対に無いことを知っておいてください。
素直な自己判断が、自分を救います。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
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自我が苦しみを呼びます
自分の生活環境や仕事などを、嫌だ嫌だと思っている間は、その状態が継続するものです。
夢や理想を持つのは良いことですが、現状を否定したままでは、夢には近づけないのです。
なぜなら、現状の先に未来が在るのです。現状を積んでいった結果が未来です。現状を嫌がっていては、未来も嫌な状態のままです。
だから、すべてのカギは今の現状に在るのです。
今の自分の現状との和解をすれば、今よりも良い未来が来ます。
どんな最悪で厳しい現状でも、生きている限りは、必ず感謝するべき視点が在ります。
その中でも、生きているだけでも有り難い、と思いながら目の前の物事をしていけば大丈夫です。改善するときは、早いものです。
現状を否定しながら、改善を待っていても苦しいだけです。
今の現状を捨てていては、未来も捨てる事に成るので注意しましょう。
人間とは、隣の芝生(となりのしばふ:他人の持ち物が良く見えて、欲しく成ること)が良く見える自我を持つのです。これは本人が持つ飢餓感(きがかん)が、そのような自我を増幅させます。
だから、現状に満足している人、感謝ができる人には、他人の芝生はただの庭にしか見えません。
恋愛なども、まさに隣の芝生です。他人が大切にしている人が、素晴らしく見える幻想を持つのです。いざ奪ってみると、あれ?と直ぐに飽きるものです。
処刑されたイラクのサダム・フセインは、人妻を愛人にするのが趣味でした。数百人の愛人がいたそうです。家庭を大切にする美しい人妻が、嫌がれば嫌がるほど逆に執着したそうです。これなどは、まさに悪魔に憑かれた破壊趣味です。やはり、屈折した家庭の生い立ちから、自分の母親の異性関係を見て育ち、母親からの愛情の飢餓感が人妻に執着する自我を持たせたと感じます。
現状に満足すれば、成長が止まると思ってはいけません。現実的には、逆に現状を維持して頑張る方向に進んで行きます。
不満タラタラで仕事や勉強をするよりも、満足して感謝しながら行動するほうが、迷いや漏電が無い分、能率は上がっているのです。
この世の真の幸福に気付かせ、あの世にも持参できる気持ちは、生かして頂いて ありがとう御座います、の精神で現実界を泳ぐことです。最善・最短で、あなたを本当の安心へと導きます。
この言葉が、自我(じが)を真我(しんが:本当の自分)へと戻させます。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
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パフォーマンスは危険です
世の中には知らずに間違った神社参拝や信仰作法をしている人が本当に多いです。
自分で良かれと思ってしていることが、自分の生命力や周りにいる人々の運気を削いで迷惑を掛けているとは、無知ゆえに分からないのです。
これは個人だけではなく、集団の組織や教団も、代表者が無知ゆえに霊障に被爆する信仰を熱心にされています。
これでは、まったく信仰をしない人の方が運気が強く、まだマシなのです。自分のオリジナル磁気を維持できるし、不要な霊的存在からの干渉を受けなくて済むからです。
では、何が問題かと言いますと、参拝や信仰の作法には、起承転結(きしょうてんけつ)が在ると言うことです。
この中で、最後の「結び」が最重要なのです。
この最後の結びが無い、やりっ放しの信仰が、世の中の大半なのです。
参拝の基本は、二礼二拍手一礼です。
この一番大切な最後の一礼の、無い、知らない、意識できない、信仰作法や行法が多いのです。
神社や寺院、磐座(いわくら)などの信仰の場所や大自然の中で、祝詞や御経、龍笛(りゅうてき)などの信仰楽器を奏上することは、その場に居る霊的存在を呼び出すことに成ります。
何百年、何千年と経過する場所には、必ず色々な精霊や怨霊、堆積した人の思念がウズを巻いているものです。
この霊的磁気のウズを、昔の人は長物(ながもの)と呼び、龍神や蛇霊と呼ぶこともありました。しかし、その実態は千差万別であり、神に仕える眷属もいれば、邪気が集合した怨念の長物もいるのです。これらは、決して神様ではなく、神気に集まる霊的存在にすぎないのです。
信仰の場所では、基本の二礼二拍手一礼と感謝の気持ち(生かして頂いて ありがとう御座います)だけで十分なのです。
寺院でも、生かして頂いて ありがとう御座います、の気持ちでの礼拝が最善です。
これ以上の、知ったかぶりの作法やパフォーマンスは、その場の霊的存在に干渉することに成ります。
普通の参拝場所において、私服で龍笛を吹くなどは、非常に危険です。
その場にいる、他の参拝者も危険にさらすことに成ります。
まず、本殿を守る眷属神から見ますと、不敬罪です。
伊勢神宮でも正式参拝は、正装していることが条件です。たくさんの寄付をしていても、男性はネクタイと背広を着用していなければ、御正殿前の審査で受けつけてもらえません。これは、何を見ているかと言いますと、「神様への気づかい」です。
服装の中身では無く、神様に礼儀を尽くす本人の気持ちを見ているのです。これは、眷属神が観ている視点と、完全に一致しています。
神宮が、この仕組みをいまだに守っているのは、神の視点が分かる人が実際に居るからです。
つまり神前で笛を吹いて、霊的存在を呼び出すには、それなりの真剣な礼儀を尽くした上での気づかいが必要なのです。
さらに問題は、霊的存在を呼び出した後が大切なのです。
西洋魔術でも、悪魔を召喚(しょうかん:呼び出すこと)した後、悪魔を帰すことが出来なければ死ぬとされています。悪魔を帰す呪文を知っていることが、術者の最低条件です。この帰す呪文が、秘密中の秘密であり、悪魔ごとに帰す呪文が違います。
この霊的仕組みは世界共通であり、日本でも神霊を呼び出せば、その神霊をお帰しする言霊が在ります。この言霊は秘密であり、公開はされません。
普通の教祖や有料先生は、帰す仕組みが必須であり、それが存在すること自体を知りません。
神前で龍笛を吹けば、その奏上した時間と同等な、帰す作法が必須なのです。
龍笛を吹いた後、ただの一礼をして帰ることは、その場に居る他の参拝者を危険にさらします。
龍笛を吹いている間は、長物が神前から呼び出されて来て、本人や参拝者の間を長い蛇のように煙(霊的磁気、エクトプラズム)が巡回しているのを観ます。この状態のまま、一礼だけで切り上げるのは最悪です。
「ちょっと、待て」と成ります。呼び出しておいて、終わりではダメなのです。
この様な霊的背景が分からない人は、神前での個人プレーをする資格自体がありません。運気を落とす危険な行為です。子供がするコックリさん遊びでも、精神異常を来たす事故が起こるのは、途中で中断をさせた時です。呼び出した物を帰すことが、一番大切なのです。
呼び出す一方の間違った無知な信仰が、世間には多いのです。
どんな信仰の場所でも、生かして頂いて ありがとう御座います、と生かされている原点への感謝を捧げることが正神へと通じ、自分の内在神に反射して運気が増すのです。その場の霊的存在に干渉する作法は、不要で危険なのです。
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志(こころざし)が大切
折れそうな心細い心でも、必死に生きようともがく姿は美しいです。それが自分のための事でも、自分という生命を活かそうと責任を果たしているのです。
さらには他人も活かそうと、もがき努力する姿は、最高に美しいものです。
しかし、無理な人助けは、お金や時間も掛かる事が多く、自分自身をつぶしかねません。これでは、自分への責任も果たせないのでダメです。自分が出来る範囲で実行できれば、それで良いのです。
ただ、同じ勉強中の生きる人間を助けるのは難しいですが、この世を卒業した縁ある人々を思いやる事は、誰にでも出来ます。
もし、困っている卒業生(先祖)が居れば、助けてあげたいと思える気持ちは美しいです。これは、お金も物も必要ありませんので、自分の気持ち1つで出来ることです。
既に生きていない人々への思いやりですから、何の見返りも期待できません。それでも、困っていれば可哀想だ、という気持ちだけで行うのですから、尊く美しいのです。
利己主義の有料先生は、先祖供養をバカにして神ばかりを求めます。
本当の神様は、弱い者を見捨ててスリ寄る人間を相手にすると思いますか?絶対にしません。
困る者(先祖や縁ある霊)を助けようとしている人間には、神の方から寄ります。
なぜなら、神と同じ事をしようとするからです。その波長に引き寄るのです。
人の心は絶対に死ねない永遠不滅な存在です。でも、肉体は違います。期間限定で先祖と神様から借りている物です。自動車にガソリンを入れるように、肉体にも水や食事を供給し、定期検査も必要です。
医師にしても、人間を治す自信など本当はありません。
でも、なんとか困る人を「治したい」という志(こころざし)が在るだけなんです。この志が、他人を治しています。
ただ、この現実界の次元では、志だけでは医師も自信が持てないので、無数に選択できる薬や手段を併用します。やることはした、手段は尽くしたと思えれば、その気持ちが医師にも患者にも強い癒しの効果を起こさせます。
先祖供養や神様への感謝参拝も、まったく医師の気持ちと同じです。
信仰したからと言って、良くなる自信も本当はないのです。
ただ、困る存在が居れば癒してあげたい、見えない物事にも恩を感じて感謝をしたいという志が、その人に在るだけなのです。
この志が、大いなる存在には届いているのです。
この世のすべては、大いなる存在1つから産まれたのですから、私たちが持つ志は、自然と大いなる存在へと届きます。
この志を集合させた内容が、私たちの住む世界に反射して来ます。
「気合いだ〜」ではなく、この世は「こころざしだ〜〜」なのです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
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